創始者・CEOあいさつ

カマチグループ創設者・CEO
現・社会医療法人財団 池友会 理事、現・一般社団法人 巨樹の会 会長、現・医療法人社団 東京巨樹の会 理事長、現・学校法人巨樹の会 理事長

昭和49年、19床でスタートした下関カマチ医院から40数年。カマチグループは病院25、診療所2、学校8、助産院1 を運営する医療法人として成長してきました。回復期リハビリテーション医療にも一層力を入れ、地域医療にとどまらず「大和民族のための医療」を目指し、最善の努力を続けます。

24歳で医師になってから、医師として大概の事はできるようになり、「自分のところに来た患者さんは何が何でも治す!」という気概でやってきた救急医療でありました。私は下関カマチ医院を開院した時から「厚生省の政策を10年先取りして動かなければ」と考えてきました。

小文字病院を開院した当時、救急対応をしていた病院は、当院とあと一つくらいで、普通に治療をすれば助かる患者さんが手遅れで亡くなっていました。これは国内で交通事故に遭えば、ベトナム戦争よりも死亡率が高かったことになります。

他の病院が受け入れない患者さんを当院の技術と医学知識で治療し、全体をレベルアップさせてきました。その結果、福岡・北九州の医療現場から「タライ回し」をなくしたのです。そして当時、私より15歳年下の若いセラピストが、救急の治療後すぐに適切なリハビリを行えば、回復が早い事を実例で示してくれました。彼が手術後の患者さんにリハビリを施すと、予後が違った。まだ早期のリハビリはいけないとされていた時代でしたが、リハビリは効くと思い、積極的に取り入れてきました。その結果、早期退院が可能となり、病床の回転率が上がるという好循環な結果になりました。

とにかく患者さんのために役立つ医療を行わなければならない。そのためにどのような医療を行えばいいかということは、「シンプル アンド ロジカル」です。必要なことは必要な時期にすぐに実行する。患者さんが「痛い」と言えばすぐに痛みを取ってあげる。「苦しい」と言われたらすぐに和らげてあげる。「死にたくない」と言われたら命が長らえるようにできるだけの努力をする。それは病院運営でも同じことです。マーケティングを行いニーズがあるところに病院を作っていった結果、病院が増えました。だんだん病院が増えてくると、看護師やセラピスト集めが大変と言われる。ならば、養成校を自前で持っておけばいいのではないか。それがカマチグループの施策の一つです。

もう一つ心に留めている言葉が「伝統は与えられるものにあらず 作るもの也」。こうしてグループが発展した土台には、基礎を築いた人物や出来事など歴史がありました。それらがあったから今があるのです。またその歴史に伝統という色づけを皆でしてきた。その伝統は、もっと良くしたいという思いから生まれたものです。

もっと素晴らしい病院にするために、毎日毎日の手、顔、心が伝統になると思っています。これからもいい伝統を作り続けていきたいと考えています。

そして、若いスタッフが大勢いるのもポイントの一つ。彼らの「何としてでも患者さんを治す!」という心意気は、グループの大きな原動力です。

また回復期のリハビリテーションは、患者さんに生きる希望を見出し、人間として生きるための尊厳を回復することが使命です。救急医療によって命を助け、退院後のQOLを高めるためにリハビリテーションを行い、できるだけ早く元気になって自宅や職場に復帰して頂くこと。

それが結果として日本を元気にしていく。グループ内のどの病院も地域医療だけにとどまらず「大和民族のための医療」を行っています。それがカマチグループの役割だと考えています。

これまでもこれからも、人類の生命がある限り、カマチグループは医療界のプロ集団として邁進してまいります。

蒲池 眞澄

蒲池真澄

カマチグループ創設者・CEO
社会医療法人財団 池友会 理事
一般社団法人 巨樹の会 会長
現・医療法人社団 東京巨樹の会 理事長
現・学校法人巨樹の会 理事長

昭和15年、福岡県八女郡黒木町生まれ、蒲池家は江戸中期から医師で蒲池眞澄が9代目。九州大学医学部卒。虎の門病院、九大大学院医学研究科、下関市立中央病院、福岡大学医学部を経て昭和49年、下関市で救急指定の下関カマチ病院を開院し独立、昭和56年北九州市小倉北区に小文字病院、昭和62年福岡和白病院を開設し院長に、平成15年から巨樹の会会長に就任、平成31年4月から東京巨樹の会理事長に就任、令和4年8月から学校法人巨樹の会理事長に就任。